古典を読む会

宇治めぐり


      「古典を読む会」では平家物語の「頼政最後」「橋合戦」があった宇治を訪ねることになりました。

      杉野先生はいつものように歴史的、文学的な解説書を参加者11名に配ってくださいました。

      当日、京阪電車宇治駅の改札口に集合。初夏の空は晴れ上がり、木々の緑が鮮やかである。

      最初に訪れたところは橋寺放生院であります。

      杉野先生の解説文

  橋寺放生院

      推古天皇12年(604)、聖徳太子の発願により蓁河勝が建立したと伝えられ、以後、宇治橋の歴

     史でもある
という寺。奈良西大寺の僧 叡尊律師が再三流出する宇治橋を新たに架設。弘安9年

     (1286)に宇治川で死んだ人や馬や魚の霊を慰めるために、塔の島に
十三重の塔を建立し、当寺

     で大放生会を営んだことから
放生院と名づけられた。境内には「宇治橋断碑」と呼ばれる石碑が

     ある。断碑とは断絶した碑文という意味で、
奈良元興寺の僧 道登が大化2年(646)に宇治橋を架

     けたいきさつが記されている。寛政3年(1791)に出土したもので、尾張の学者 
古林亮適らによっ

     て復元された。

     宇治橋断碑は多古碑(群馬県) 多賀城碑(宮城県)の日本三古碑のひとつである。私たちが訪れ

     たときは布でカバーしてあった。   

     芭蕉の句碑があった。

        木がくれて茶津美もきくやほととぎす   芭蕉

     さわらびの道を歩く。この道は宇治川の東岸から末多武利神社、宇治上神社を経て源氏物語ミュー

     ジアムにいたる石畳の散策道。道沿いに源氏物語宇治十帖の早蕨古跡があることから通称「さわら

     びの道」と呼ばれている。空には雲もなく、木々の緑の匂いがいっぱい。

     宇治上神社(世界遺産)

      明治時代までは隣接の
宇治神社と二社一体で「離宮上社」と呼ばれていた。祭神は、応神天皇と

     その皇子莵道雅郎子(うじのわきいらつこ)及び兄の
仁徳天皇とされている。拝殿は鎌倉初頭のもの

     で寝殿造りの様式を伝えている。本殿は平安時代後期に建てられた。現存するわが国最古の神社

     建築である。国宝二棟、重文一棟。(先生の資料から)


     寝殿造りの屋根は縋破風(すがるはふ)といわれる手法を用いた、といわれるもので曲線美である。

     そのバックには鬱蒼とした木々のみどりが見える。鶯が今日は上手に啼いている。鶯でも歌の上手

     なのと下手な鶯がいるのがわかった。

      宇治神社

      宇治の地が初めて史書に現れるのは
「日本書記」の中である。第15代応神天皇が長子大鷦鷯

     (おおささぎのみこと)即ち仁徳天皇をさしおき
第五親王莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)に帝位を

     譲ろうとしたとき、親王はそれを固辞してここ宇治の地に閑居し、
莵道宮と称したと日本書記にある。

     最期は宇治川に入水したというこの悲運の皇子を祀っている。因みに、その墓は三室戸駅の近くに

     ある。(先生の資料から)


     古代の歴史の世界に浸って,わたし達は宇治川沿いを歩く。観流橋を渡って興聖寺に着いた。

 
      興聖寺(こうしょうじ)

     
 道元を開祖とする曹洞宗の名刹。宋の留学から戻ってきた道元が越前の永平寺を開く前に伏見に

     建立したが、戦乱で消失、江戸時代慶安2年(1649)に宇治の地に再興された。参堂は両脇に流れ

     る 山水の音が琴の音色のように聞こえることから
琴坂と呼ばれ親しまれている。庭園も春秋に美し

     い。また、塔の島にある石塔(明治末期に復元)の本物が建物内部の庭にあるとか。宇治川の底に

     沈んでいたのを引き上げ、当寺で守っているとのこと。中に
茶筅塚がある。(先生の資料から)

 
     石門をくぐり、琴坂と呼ばれる参堂を登っていくと中国風の白い山門があった。門の両側にはローズ

     バイオレットのさつきの花がまだ美しい。京都の自然200選に数えられている。静かな境内で鶯の

     声を聴く。宇治銘木100選にある小松があった。高さ4mで周囲0.8m、樹齢300年という。ここの建

     物の鬼瓦が面白い形をしていた。

       梵鐘

     狩野探幽がデザインして、朱子学の林羅山の名文が刻まれていたので、戦時中供出を免れた。平

     等院の鳳翔館の梵鐘は有名だけれど、ここのはひっそりと存在している。「勝手に打たないでくださ

     い」という立て札が立っていた。打てば屋根ごと落ちてきそうな感じ。川の向こうに十三重の塔が見

     える。川沿いの道を水の音を聴きながら歩いて朝霧橋を渡った。宇治川は溶け込むような緑色で、

     川面に白鷺が居た。


 
      宇治川先陣の碑

      
平家物語 には宇治橋を舞台とする合戦が2度でてくる。

      一回目 
「橋合戦」 治承4年(1180)5月高倉の宮以仁王を押し立てて平家打倒を決意した

     源三位
頼政が三井寺から六波羅めがけ宇治に兵をすすめ、宇治橋の合戦となる。五智院の但馬、

     筒井の浄明明秀、一来法師らいずれ劣らぬ豪勇がすさまじい働きをみせたことを
「橋の上のいくさ、

     火の出るほどこそ見えにけれ」と平家物語は記している。


     二回目
 「宇治川の先陣争い」 寿永3年(1184) 一月、京の木曽義仲を討たんと、源義経

     の率いる関東の軍勢が宇治からの進攻を試み、それを迎える義仲勢と宇治橋を挟んでぶつかり合

     う。義経の下知により、面々は馬を宇治川に乗り入れて先陣を争った。その時、
佐々木高綱が索を

     弄してライバル
梶原景季を押さえ、あっぱれ先陣を果たし、その後、義経軍は大挙して川を渡り義仲

     軍を打ち破った。

      いま、橋の島にある
「宇治川先陣の碑」はその故事に因んで昭和6年(1931)に建立されたので

     ある。 (先生の資料から)
   
                                  

      喜撰茶屋で昼食。蕎麦が冷たくて美味しい。ここのてんぷらはお茶どころらしく、衣がお茶の色であ

     る。窓から宇治川や連なった山々が見えた。「あの流れの速い川に馬筏をつくって渡ったんやねえ」

     と先生。

     「このお店は喜撰法師からとった名前かしら」と誰かが言った。

      わが庵はみやこのたつみしかぞ住む世をうじ山とひとはいうなり(喜撰法師)

     喜撰法師は六歌仙のひとりで、上記の歌は百人一首で有名であるが、宇治山に住んだ僧という以外

     確かなことはわからない。

        
        

  
     平等院は南口から入った。拾円玉で有名な平等院は世界遺産にも登録され、世界に誇る日本の文

     化となった。
   
      平等院(世界遺産)

     河原左大臣源融がこの地に別荘を営み、後に藤原道長が山荘を構え、その子頼道が寺院に改めて
     平
等院と名付けた。多くの伽藍の中で本堂にあたる阿弥陀堂が、丁度鳳凰が両翼を広げた形に似

     ているところから
「鳳凰堂」とよばれるようになった。鳳凰堂の前には池を配した庭園があるが、創建

     当初は宇治川や対岸の山並みを取り入れて、
西方極楽浄土をあらわしたものといわれる。

      橋合戦を前に高倉の宮は三井寺から興福寺へ落ちていくが、途中疲労のために暫時ここ、平等院

     で休息をとった。その後、このあたりで激しい合戦が行われた。(先生の資料から)

        

  
   
    浄土院

      源頼政の墓がある。また橋合戦のとき、頼政に茶を献じた後討ち死にしたといわれる通園法師

     墓もある。通園の子孫は代々宇治橋の橋守として橋のたもとで茶店を構え、現在も橋の東詰で通園

     茶屋を営んでいる。(先生の資料から)


       源頼政(1104〜1180)

      法名 頼円・真蓮  通称 源三位  摂津国渡辺(現大阪中央区)を本拠とした摂津源氏の武将。

     三河守頼綱の孫。従五位下 兵庫頭仲正の息子。歌人としては
俊恵の歌林苑の会衆として活動。藤

     原実定・清輔をはじめ歌人との交遊関係は深い。また小侍従を恋人としたらしい。「歌仙落書」「治承

     三十六人歌合」に
歌仙として選人される。長明「無名抄」には藤原俊成の

     「今の世には頼政こそいみじき上手なれ」 俊恵の「頼政卿はいみじき歌仙也」など高い評価がみえ

     る。歌集
「源三位頼政集」がある。

     源頼政の歌  頼政の作歌態度については鴨長明の「無名抄」に印象深い記述がある。頼政と親交

     のあった俊恵法師の言葉であると思う。

      頼政卿はいみじかりし歌仙也。心の底まで歌になりかへりて常にこれを忘れず、心にかけつつ

     鳥の一声鳴き、風にそそと吹くにも、まして花の散り、葉の落ち、月の出入り、雨雲などの降る

     につけても立ち居起き伏しに風情をめぐらさずということなし。真に秀歌の出でくる理(ことわり)

     とぞ覚えはべりし


     「心の底まで歌になりかへりて」とは歌を詠む対象や主題を深く心を入れてそれになりきってしまうと

     いう意味だろう


        深山木のその梢ともみえざりし桜は花にあらわれにけり

        山めぐる雲の下にやなりぬらむ裾野の原に時雨過ぐなり


     といった秀歌はまさにそうした数奇の人ならではの作だろう。当時あまりに永きにわたった題詠

     の盛行は趣向主義の行き詰まりによるマンネリズムとともに、歌と作者の乖離ーいわば叙情主

     体としての「私」の喪失ーという傾向に陥りつつあったが、心ある歌人は風流をおのが生の信条

     とし、自然への没入を深めることで、四季詠に叙情性を甦らせた。頼政にとってもまた
花鳥風詠

     は意志的な人生の態度にほかならなかった。(以上先生の解説文から)


  
    「わたしは頼政が嫌い!!平治の乱では平家につき、清盛に三位まで出世させてもらったのに

     裏切った」とマサヨさん。「本当に頼政には節操というものがないっ!!」とトミコさん。頼政の評

     判は悪い。頼政は源氏でありながら「平治の乱」のときは平家方について義朝を裏切って功績

     をあげ、治承2年(1178) 75歳のとき、清盛の推薦によって三位に昇進した。三位といえば大

     臣クラスである。それまでずーと四位にいて、なかなか昇進しなかった。

         のぼるべき頼りなき身は木下にしい(四位)をひろいて世をわたるかな(頼政)

     ぶつぶつ愚痴っている頼政の顔が目に浮かぶようである。この歌で念願の従三位に叙せられ

     る契機となったといわれる。それなのに治承4年(1180)4月 頼政は以仁王(後白河院第2

     子)の令旨を奉じて挙兵した。やっと大臣クラスにしてもらった二年後、反旗を翻した頼政の本

     意はどこにあるのか・・・支離滅裂でやぶれかぶれという感じ・・同年5月 三井寺より王を護っ

     て南都へ向かうが、平知盛、重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、26日、宇治川に敗れ平

     等院 で切腹して果てた。享年77 

   

  

 
 扇の芝

  観音堂の背後に芝を扇の形に刈り残し

  たところがあり、これを
「扇の芝」と呼ん

  でいる。宇治橋に敗れた頼政が自刃し

  た跡と伝えられている。平家物語には

 
 「釣り殿にて」とある。当時、平等院の

  釣り殿は宇治川畔にあったと考えられる

       ( 先生の資料から

       花咲きてみとなるならば後の世にもののふの名もいかでのこらん  頼政

  
     の歌碑があった。周囲には桜の木が沢山あって赤い実(さくらんぼ)がなっていた。

     観音堂には衣冠束帯の頼政の像があった。ふっくらした善人の顔をしている。ひとりできているおじ

     いさんが源頼政と源義経の関係を先生に聞いていた。先生のお返事によると頼政は清和天皇

     を始祖として源頼光から数えて5代目になる。義経は清和天皇が始祖であるのは変わらないが頼

     光の兄弟頼信から5代目に当たる。

            
       

     池に面した庭園を歩く。緑の広がりがあって西国浄土を歩く気分。

        鳳翔館

     2001年にオープンした平等院ミュージアム。大和絵風九品来迎図(国宝)梵鐘(国宝)、鳳凰

     一対(国宝)、雲中供養菩薩像(国宝)など見ごたえのあるものが数多くある。(先生の資料から)


     光背は修理されたとこで、そのプロセスがビデオで放映されていた。三次元のデジカメで撮影して

     修理する。

     雲中供養仏は周囲の長押の上の小壁に51体あった。像は雲に乗り、いろいろな楽器を持っている。

     51体の内26体が定朝作であった。

     「仏像はどなたをみてもお腹が出てるねえ。きっとこれが究極の美なんよ」とマサヨさん。どの仏様

     も魅力的であるが、ふくよかで癒し系である。

      あじろぎの道

     昔、この辺りの川瀬に氷魚(ひうお 鮎の稚魚)を捕る網代を組んだ木(あじろぎ)があったことから

     この呼び名ができた。(先生の資料から)

      宇治橋

     あじろぎの道を歩くと宇治橋に来た。大化2年(646)道登によって架けられた橋。瀬田の唐橋

     と並ぶわが国でもっとも古い橋のひとつ。ほとりに紫式部の像が建っていた。

     宇治橋の張り出した(三の間)は秀吉が茶の湯に使う水を汲ませたところだと先生が言われた。

     絶景であった。